01
5月

ゴールデンウィーク

コロナ禍以降、時間の過ぎるのが早く感じるのは老若関わらずのようです。

今年も早、ゴールデンウィークに入りました。

音高・音大時代の長期休暇というのは、もちろん普段の土日も含め

「練習する日」であり、どこかに旅行に行くなどもってのほか、

一日遊ぶことすら、罪悪感を抱いたものです。

まとまった時間が取れたらとにかく練習に当てる。

でもそれが果たして音楽的であったかというと疑問です。

もちろん、ある時期そうした過ごし方は必要なのですが、

テクニック、それも機械のような「音をはずさない」「鮮やかに指がまわる」ことにのみ

重きを置いていた日々だったように思います。

先日、娘(ダンサー)があるオーディションの後に

恩師がその場にいたダンサー全てにおっしゃったお言葉に

深く感銘を覚え、どの分野でも同じだとしみじみ思いました。

いわく、「ダンサーだったら身体が動くのは当たり前。身体が動くのと

ダンスが踊れているのとは別の話し。ダンスが踊れている人のダンスは

安心して見ていられる。」

以前、音楽家の大先輩もおっしゃっていました。

「僕たちの仕事は空気を作ることだよ?」

ダンスだったら身体が動く、演奏だったらミスタッチをしない、指が動く、

それは当たり前の話しという前提であり、

本来目指す「目標」とは少し方向性が違うのかもしれないなと思います。

ダンスによって、演奏によって、どういう世界を作れるのか・・・

それこそが目指すべきゴールなのではないかと思います。

極論を言えば、身体が動かなくても、超絶テクニックを持っていなくても、

その人がどういう空気を作れるのか、それこそが目指すゴールなのかもしれません。

また最近改めて思うのは、

「自分が大好き」なのか、あるいは「ダンスや音楽が大好き」なのか、

その少しの違いが、結果として大きな差となってパフォーマンスに表れるということです。

難しい話かもしれませんが、人の心を打つパフォーマンスかそうでないかは、

そこが大きなポイントなのかもしれないなと思います。

先述の先輩が

「テクニックのあるなしではなく、

その人がそこで演奏している、ということそのものが聴いていて心地良いって

すごく大事なことなんだよ。」

とおっしゃっていたことも、ずっと心に残っています。

私が私が・・・という過剰な自己顕示ではなく、

自分自身が、音楽といかに「無心に」一つになれるか、演奏して心地良いか、

これからも大きな課題です。

11月のライブに向けて、このゴールデンウィークをいかに過ごそうか、

それは学生時代の悲壮感漂う義務的なものではなく

自分自身がワクワクと楽しく過ごせるものであることに

牛歩であっても半歩でも進めたかなと思う日々です。